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文久3年8月19日(1863年10月1日)
【京】七卿の都落ち/
朝廷、幕府及び諸大名に攘夷督促の令
九門中、中立売・今出川・清和院の三門が開かれる
【長】幕府の長州糾問使中根一之丞一行、襲撃される

■禁門の政変
(1)長州側の動き
【京】文久3年8月19日、前日の朝廷政変で権力を失った過激派公卿7名は、長州藩士らと共に長州に向かって西下の途につきました

前日の政変(こちら)。で、激派公卿・激派浪士・長州藩士らは妙法院に屯集しました。総勢は、長州・清末・岩国の藩兵、及び親兵・浪士を含め、総勢約2,600人だったといいます。主だった参加者は、三条実美、三条西季知、豊岡随資、滋野井実在、東園基敬、東久世通喜、四条隆、錦小路頼徳、壬生基修、烏丸光徳、沢宣嘉の公卿のほか、毛利元純(長州支藩清末藩主)、吉川経幹(岩国藩主)、益田右衛門介(長州藩家老)、久坂玄瑞、佐々木男也、真木和泉、渕上郁太郎、土方久元、宮部鼎蔵、美玉三兵らでした。

彼らは善後策を協議しました席上、真木は追討使を待つより、河内の金剛山か摂津の摩耶山で義兵を挙げることを主張しましたが、長州藩士は、諸卿とともに国元に帰ることを主張しました。柳原から下賜された勅書(「攘夷御親征の儀は、兼々の叡慮在らせられ候えども、行幸等の儀に付ては、粗暴の処置之有り候段、御取調べ在らせられ候。攘夷の儀は何處までも叡慮御確乎在らせられ候事故、長州に於て益尽力之有り候。是迄長州効力朝家候に付き、人心も振興の事、向後、弥御依頼思召され候間、忠節相尽すべき候。藩中多人数の内故、最も鎮撫加え、決して心得違い之無き様、益勤王忠力竭すべき旨仰せ下され候」)を奉じようというのです

結局、「朝廷の危胎に際して遠く輦下を離るるは臣子の忍びざるところなれども・・・(中略)・・・徒に戦没して不忠不義の汚名を泉下に留めんよりは、一度防長に退きて再挙を図るにしかず」(『徳川慶喜公伝』)と決し、急進派諸卿のうち三条実美ら七卿が長州藩士や一部の志士とともに都落ちをすることになりました(他の諸卿は前日の朝議で禁足を命じられていることから、西下して罪を重ねることを憚ったそうです)。

西下にあたって長州藩は朝廷に嘆願書(上記勅の請書)を提出しました。

「・・・堺町御門御固め御免仰せ付けられ候ては、専ら国許海防尽力仕りたく存じ奉り候間、毛利讃岐守・吉川監物を始め、詰居り候者只今より帰国仕り候。尤も攘夷の儀は弥(いよいよ)御寄頼思し召され候段、仰せ聞かされ、有難く存じ奉り候。ついてはこの上格段挙国必死尽力仕り候。尚又、嘆願も仕り候通り、三條殿を始め積年誠忠人望○候御方、攘夷の先鋒御懇願も成されらるの由につき、国許まで御共仕り候間、何卒早々御復職等の御沙汰待ち上げ奉り候」(経幹公卿東上記−『維新史』収録のものを読み下し・byヒロ)

(西下の際に長州藩の久坂玄瑞の呼んだ有名な歌は、のちほど「志士詩歌」にアップする予定です^^)。

(2)朝廷側の動き
【京】文久3年8月19日、朝廷は諸大名に、幕府の命令を待たずに攘夷を実行するようにとの勅命を下しました(「今般行幸暫御延引被仰出候へ共、於攘夷は早可遂成功、累年之叡慮に候、依之勤王之諸藩、不待幕府の示命、遂に可有掃攘之由、叡慮被仰下候事>)

同時に幕府にも攘夷督促の沙汰を下しました(「去六月廿九日攘夷期限之儀、不都合次第非一候に付き、小栗長門守非為遣御沙汰之處、数日否之御答不申上候に付、幸ひ七月廿四日、松平式部大輔出府之次、伺天機登京の砌、前條御催促被仰下候處、今以因循に打過、如何之儀に思召候。迅速可奉攘夷之成功、厳重御沙汰之事)。

同日、政変時に閉鎖された御所外講九門のうち、中立売・今出川・清和院の三門が開かれました。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年:「親兵設置・宮門警備問題」「大和行幸と禁門の政変
参考:『修訂防長回天史』・『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2001.10.1, 2004.10.31)

■島津久光召命
【京】文久3年8月19日、近衛忠煕前関白父子は、島津久光に上京を促す書簡を認めました。

関連:■テーマ別文久3「島津久光召命
参考:『玉里島津家史料』(2004.10.31)

■幕府使番中根一之丞暗殺
【長】文久3年8月19日夕刻、刺客が幕府使番中根一之丞の一行を襲撃し、小人目付鈴木八五郎及び一之丞の従者二人を殺害しました。

鈴木は路傍に梟首されました。捨て札には「違勅」の罪により天誅する旨が書かれていたようです。鈴木は中根と誤認されて殺害されたのでした。

中根一行は長州藩の答弁書を同月4日に受け取っていましたが、自分たちの乗ってきた幕艦朝陽丸が奇兵隊士らに乗っ取られたままであり、帰ることもできず、小郡に滞在していました。

<ヒロ>
むごい。うぅ・・・。天誅組の代官鈴木らの殺害・梟首もむごいですが・・・。自分たちが正義だと思えば何でもする。イラクのザルカウィ一派と同じですよね。(尊攘急進派だけでなく、新選組の天誅・粛清も同じことですが)。

関連:◆7/15(8.28):【江】攘夷戦争(21)&中根暗殺(1)幕府、使番中根一之丞を長州詰問に派遣◆7/24【長】長州訊問使中根一之丞、朝陽丸で下関到着 ◆7/26【長】(3)奇兵隊、朝陽丸乗っ取り。中根、陸路小郡へ。 ◆7/29(9.11):【長】(4)中根、幕府の訊問書を伝達◆8/4(9.16):【長】(5)長州藩、幕府の訊問に対する答弁書を交付
参考:『修訂防長回天史(四上)』p536(2004.10.31)

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